同い年のはなし

どうでもいい話であるが、私の父は、村上春樹と同い年だ。

先日帰省したが、父は、世の75歳としては若いというか元気で、私の娘たち、つまり父にとっての孫娘といっしょに、本気で野球やサッカーで対決してくれる。

手加減や忖度と言う文字は父の辞書にはない。

 

ピッチャーとバッターと外野しかいないオリジナルルールの野球をする中、父は、そのときどきの獲得した点数で「大谷(おおたに)」「中谷(ちゅうたに)」「小谷(こたに)」とランク付けをして、娘たちと自分の呼び名を変える。

祖父と孫娘2人で大谷を競い合う仕組みである。

これが小学生の娘たちにはツボで、試合をみていると「うわああ小谷になってしまったあ!」「やったー中谷(ちゅうたに)だー!」「よっしゃ!大谷!」とせわしなくそしてアホらしい。

 

やはり普通に考えて、父はかなり頑健というか元気はつらつな方である。

だからといって、村上春樹と同い年であることをすんなり受け入れるかとなるとそれはまた別次元だと、帰りの飛行機の中で「ドライブ・マイ・カー」を観ながら思う。

 

もはや私の年齢ですらもう「あ、うん、それもうよくない?」という話をしているからなあ村上春樹。元文学少女もどきよ、そんなぺらぺらな感想でいいのか⁉と己の肩を揺さぶりたいようなそうでもないような。でもたぶんこれでよいのだ、私の感性はまっとうに、そう、正しく老い始めているのだと実感する。(そういう感じのセリフが映画に合ったよね、全然違うけど)

 

私はやはり、ちっとも村上春樹寄りではない。

だんぜん、大谷だったり中谷だったり小谷だったりする父寄りだ。

 

近所の「小谷さん」のことを「きっと弱いんだろうね」と、根拠もなく(あるのか?)弱者認定するわが娘1は、まちがいなく父の血をひいているし「いやいや、小谷さんはもとから小谷さんで、大谷や中谷(ちゅうたに)から順位を落として小谷になったわけじゃないからね」とばかばかしい説明を必死にしている私も、間違いなく父の血をひいている。